GOOD -善き人- 感想

どうも、虚無です。

 

今回は GOOD -善き人- の感想文を書きます。いつもであれば内容と演出に分けて感想を書いていくのですがこの舞台についてはかなり感想があるので、殴り書きみたいになってしまうかもしれないですが記憶が消えないうちに書き留めておきます。

<あらすじ>※公式HP引用

ヒトラーが台頭し始めた1930年代のドイツ・フランクフルト。

 

大学でドイツ文学を教える“善き人”ジョン・ハルダーは、妻や3人の子供たち、認知症の母親の面倒をみながら暮らす良き家庭人であった。ただ一人の親友はユダヤ人の精神科医モーリス。彼には家族の問題や突然訪れる妄想について打ち明ける事ができた。その妄想は、幻の楽団と歌手が登場し、状況に合わせた音楽を演奏するというもの。現実と妄想の区別がつかなくなっていると、ハルダーはモーリスに訴える。一方、モーリスも、自分がユダヤ人であることで、ナチス反ユダヤ主義により、自分がドイツにいられなくなるのではないかという大きな不安を抱えていた。

 

そんなある日、ハルダーは講義を受ける女子学生アンから、このままでは単位が取れないと相談を受け、その夜自宅に彼女を呼んでしまう。夜遅く雨でずぶ濡れになって現れたアンに、彼は好意を寄せ、関係を持ち始めてしまう・・・。

<感想>

主人公であるハルダーの周りには当時のドイツ社会から異端と見られていた人達(ユダヤ人のモーリス、ダウン症の妻、認知症の母親)がおり、その関係性やハルダーの行動を通じてハルダーは果たして善い人だったのか、善い人とは何かということを問う舞台かなと私なりに推察しました。

 

この問いについては、自分自身の行動が善いことなのか問うていればその人は善い人と言えるんじゃないか、というのが私の答えです。

 

物語の最初の方のハルダーは、少なくともモーリスや妻や母親に対して思いやりの気持ちがあったと思います。モーリスのことはたった一人の親友としていたし妻や母親の面倒も一応ちゃんと見ていました。しかしナチスに入党したこと、生徒のアンと出会ったことで次第にその善良な人格は失われていきました。ハルダーは「自分が果たして善い人間なのか」ということを自問自答していたと思いますが、物語が進んでいくにつれて善い行動をしているのか自らに問うのではなく自らの行動を正当化する方向に進んでいったように感じました。アンが最後にハドラーのことを「善き人」だと呼んでたのはまさにこれを象徴していたように思います。

 

そもそもハルダーの安楽死賛成論文がナチスから評価されたのも、ハルダーがナチスで活躍することが出来たのも、ナチスが極めて非人道的な政策をやると同時にその政策は人道的なやり方で行われているという根拠が欲しかったからだと思います。これってナチスが自分達の政策を正当化してるってことじゃないですか?自分自身の行為の善悪を問う姿勢があればまだ分別はつくと思いますが、自分こそが正しいと思い込むとその人の中にある善良な心は無くなっていくんだなと思いました。ハルダーはユダヤ人でもなく障がいがあるわけでもなく当時の社会で排除される立場にいなかったからこそ、周りの環境で悩むことはあっても考え方次第で自分を正当化できるきっかけがあったのではないでしょうか。

 

あと、北川拓実が「何が善くて何が悪いかということは主観的なことで判断されるべきでは無く客観的な物事に拠るべきだ。主観的な考えには根拠も何もないじゃないか」みたいなことを言うんですけど、これに関しては「それは違うだろ」と劇中頭の中でかなり反論してました。前提として私は反差別主義・反優生思想・反安楽死の思想を持ってる人間なのですが、何故そういう思想なのかと言うとモーリスも言ってましたが人間って本当に色んな種類の人がいて、社会の利益に適った生き方ができる人もいればそうじゃない人も一定数います。私は、可能な限り多くの人が自分のやりたい事ができて嫌な気持ちを感じることがない社会というのが善い社会でそのような社会に携わることが善く生きることだと思っているので、理想とする基準をつくってそれに当てはまらない人を排除するよりも主観的な物差しであろうと各々が自分自身の考えに基づいて行動できる方がより多くの人が幸せに生きれるという意味で善いことだと思っています。要は社会の生産性よりも個人の幸せを重視すべきという発想です。というか善い行いが客観的に判断されるべきなのであれば哲学が発展することは無かっただろうし善く生きることを追求したソクラテスやカントの思想って何だったんだろうね?(そこまで言わなくても……)(でもこんなに怒れるくらい北川拓実の芝居は素晴らしかったです) あとこの超優生思想セリフは一回でいいから自担に言ってほしいなと薄ら思ったりしました。本能実直・ノーコンプラ意識が凄くて申し訳ない。

 

あと、ハルダーとモーリスの会話の中ではフロイトの話がちょこちょこ出てきます。改めて調べてみるとフロイトユダヤ人の精神科医で、劇中に出てくる精神分析というのはフロイトの提唱した精神の病の治療法のひとつで「無意識下に抑圧されていた感情や記憶を意識化し、受け入れることで気づきや症状の軽減を目指す」手法らしいです。そう考えると、ハルダーは無意識下に抑圧されていた感情(例えばナチスに入党した時の喜びなど)が脳内で奏でられる音楽という形で意識化される人だったのかもしれないと思いました。ハルダーは人格が変わったのではなく、元々無意識下に抑圧されていた別の人格が環境の変化をきっかけに表に現れただけなのかもしれません。

 

劇中にあったようなハルダーの人格的な変化は私たちにも遠い話では無いと思います。実際に今の社会でも介護に疲れて親を殺したみたいなニュースも珍しくないし、悪の感情は抑圧されて表に出てこないだけでそのストッパーが何かのきっかけで外れると人間は誰しも歯止めの聞かない方向に進んでいくのではないでしょうか。最初の話に戻りますが、だからこそ自分の行動が善いのかということを自ら見つめ直し問うべきで、その自問自答の過程があればその人は善い人と言えるのではないかと思います。

 

……なんか感想をひたすら綴ったら演出のこと一切書いてなかった!最後のアウシュヴィッツでステージの囲いが無くなったところでハルダーの目の前に起こったことが本当に現実なんだということが感じられて、舞台でしか出来ない凝った演出のように感じました。あと時系列が行ったり来たりするのでそのシーンの当事者じゃない人も同じ舞台上で座ってたり囲いの外でフラフラ歩いてたりするんですが、その人の座り姿とか誰がその場にいるのかとか見てると更に考察できそうだなと思いましたが、そこまで注目する脳のキャパシティーは無かったです。